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地域性に対応のマーケティングを考える
   日本の原風景が息づくまち
 上田市発足3年目を記念して、10月23日から11月9日まで、諏訪市在住の画家、原田泰治氏の作品展覧会を上田創造館において開催。
 期間中、武石の風景をテーマに描いた新作発表会、展覧会場での原田氏とのふれあい交流会・サイン会や子ども絵画教室があるほか、あいそめの湯でスペシャルトークショーも開催。

・場所:上田創造館 大ホール
・日時:平成20年10月23日(木曜日)から同年11月9日(日曜日)
    9時00分から17時00分まで

原田泰治
1940年(昭和15年)諏訪市上町に生まれる。武蔵野美術大学卒。
1982年(昭和57年) 朝日新聞日曜版に「原田泰治の世界」を連載

現在 クロアチア共和国ナイーブ美術協会名誉会員、日本グラフィックデザイナー
協会(JAGDA)会員、中国・上海金山農民画協会会員
著書 原田泰治自選画集、画集『原田泰治が描く ― 日本の歌百選』、絵本
『とうちゃんのトンネル』など多数。
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  (このページは推敲中。6時間後に更新の予定)

 1984年,長野県は国のテクノポリス構想に対応して,テクノハイランド構想を構築した。この構想の基で,上田地域は浅間テクノポリス圏域とし,各種施策が実施された。

 これにより,上田・坂城地域の産業はいっそう活性化したであろうか。1990年代の長期不況と,受注先の生産拠点海外展開という向かい風にあって苦戦を強いられた。上田商工会議所が実施した「平成13年度工業経営実態調査」によれば,80%の企業で受注機械等の減少がみられ,設備稼働率や雇用の減少も顕著となっている 。

 上田市においては,事業所数は,1970年代半ばまで順調な成長を示したが,それ以降斬減している。製造品出荷額をみると,1990年前後まで成長している。しかし,それ以降停滞している。

 坂城町の産業構造は,大手企業が存在せず,中小企業のみで構成されている。事業所数は1960年代に急激に増加した。その後,事業所数は1990年頃まで増加していたが,それ以降減少に転じている。従業者数は,技術革新による自動化の影響をうけ,1980年代以降減少を続けている。同様に製造品出荷額については,1980年代前半と80年代後半に急成長がみられたが,90年以降減少・停滞が続いている。

 上田・坂城地域は,長野県工業の北の核である千曲川沿岸工業地域に属している。千曲川沿岸工業地域は,須坂・長野・坂城・上田の4集積を核心として,須坂から佐久に至るセクター状の集積地域である。

 坂城・上田・旧丸子町地域は,このセクターの南側の核となる。この地域の工業化の歴史は古く,第二次世界大戦以前は蚕糸業が広く成立していた。その中でも上田市は,上田蚕種株式会社と上田蚕糸学校(現,信州大学繊維学部)があり,丸子は岡谷に次ぐ絹糸の生産地として蚕糸業の中核にあった。

 今日の工業の素地は1940年代における戦時疎開に伴う軍需工場の疎開・新設にある。この時期,上田市には日本無線,アート軽合金鋳造所,山洋電機,増島製針(現,オルガン針),昭和化工や富士電気などが立地し,坂城町には,宮野ヤスリ製造所,日本発条,大崎製作所,都筑製作所や日置電機製作所,丸子町には鐘紡,信濃絹糸,松山スキなどの工場が立地した。
     
                              (この記事,推敲中)

 10月10日,[2008上田地域総合産業展」を見学しての感想。

◆さすが上田と感心した点
1 「環境・未来共生」との区分で,環境,エコに関連した会場を開設し,上田ガス,中部電力など18社が出展。これは時代の要請にもあった企画。
2 「フロンティア・研究・サポート」との区分で信州大学繊維学部,長野高専など地域の大学,研究機関と上田市,坂城町と関連団体が19団体出展し,それぞれの活動状況をPR。

◆いまいちと感じた点
1 受付,会場案内など,いかに田舎のイベントといった感。スマートさに欠ける
2 各展示ブースの説明方法,担当者のバラツキが大きい

      (原稿・作成中)
 上田市の工業製造品年間出荷額は,1999年6843億8900万円,03年5692億6000万円で,99年と03年比では1151億2900円,27%減である。

 上田地方には,独自ブランドをもち,国内外市場で市場影響力を持つシェアを確保している完成品メーカーがある。有力企業としては,ミシン針でシェア世界一のオルガン針,トヨタ系の自動車フォーンメーカーの丸子警報機,工作機械のミヤノ,圧力計でトップメーカーの長野計器,射出成型機の世界的メーカーの日精樹脂,サードパーティのOEMとともにプロクターブランドで市場進出をはかるパソコン周辺機器メーカーのシナノケンシと数多い。

 これら有力企業のうち,今年の「上田地区総合産業展」には,長野計器は出展していたが,他の企業の出展がなかったのは,寂しい限りであった。

 07年諏訪メッセ視察記
 昨年の「07年 諏訪圏工業メッシュ」視察に続き,10月13日(金曜日),14日(土曜日)の両日実施の「第3回上田地域総合産業展」を視察した。そこで次のような疑問を持った。

 私の思い違いかもしれないが,「諏訪地域」のイベントにとどまり,県内をあげての協賛,応援態勢といった県下をあげての応援の雰囲気が感じ取れなかった。諏訪から峠一つ越えた丸子・上田・坂城地区にも,ユニークな企業が立地する。協賛があってもよかったのではないか。

 人づてに「上田地区」で毎年,工業展が行われていることを聞き,10月10日 「上田地域総合産業展」を視察に上田に出かけた。

◆主催者発表の来場者数は,以下の通り。

10月10日(金)晴れ 3,413人
10月11日(土)晴れ 4,561人

 20世紀初頭,機械織物工業が急速に発達したアメリカでは,安くて質のよい絹糸を大量に必要とした。日本の生糸はこの条件にあったことから,1907(明治40)年ごろから輸出は急増した。
 これに伴い,日本の製糸業の機械化も進んだ。丸子では,「依田社」「旭社」を中心に機械化,アメリカへの生糸輸出に積極的に取り組んだ。こうして丸子の製糸業は全盛期を迎え,人口増加により町制が施行され,文化・産業・経済の機関や施設が整備され,丸子町は上田市とともに小県地方の中心都市となった。
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 明治初期は,上田・小県地方の生糸生産高は長野県全体の約半分を占めるほどになりりました。しかしながら当時の丸子村の製糸業は,ごく小規模の家内工業にとどまりました。

 明治22年,下村亀三郎氏(初代町長)により第1号の器械製糸工場(かねいち)が誕生し,翌年には共同販売のための生糸共同組合「依田社」が設立されました。依田社は,各工場から持ち込まれた生糸の共同再繰,共同検査,共同荷造り,共同出荷,共同販売を担当しました。
 明治23年(1890)年には,(かねに),(かねさん),(かねご),(かねく)の4社の製糸工場が開業し,依田社を中心に共同事業がはじまりました。明治29年には依田社に所属する製糸工場は24となり,丸子は岡谷に次ぐ日本第2位の「生糸の町」として,海外にも知られるまでになりました。
 依田社は,横浜の生糸情報を知るため明治40年に長野市に続いて電話を引き,先見性を示しました。なお,依田社の全盛期には従業員6千人を擁しました。
かつて丸子町は,製糸業が盛んで,岡谷に続く日本第2位の生糸の生産地でありました。

 丸子町の製糸業の歴史を概括します。
◆「製糸業発展の基盤」
 明治時代にはいると、生糸は日本の重要な輸出品となりました。長野県は、江戸時代より養蚕業が盛んでした。ことに上田・小県地方は、明暦元年(1655)ごろ、丸子町依田川沿岸数十ヘクタールが桑畑に開拓されたこともあって,蚕糸業が生まれ,天保年間(1840ごろ)には、当時,生産高日本一であった奥州をしのぐほどになりました。明治初期には、上田・小県地方の生糸生産高は長野県全体の約半分を占め,生糸の一大産地を形成しました。
 江戸時代までの製糸は、農家の副業として行われていましたが,この地では,,西欧から導入された「洋式器械製糸」がいち早く導入されたことが,一大発展地となった要因と言われています。
                                              (続く) 
 丸子町は,大正元年に誕生し,昭和29年東内村,西内村を,昭和30年長瀬村,依田村を,昭和31年に塩川村を編入した。旧町制として94年の歴史を持っています。2007(平成18)年3月6日に上田市に合併編入。
 「リンドウ」「薬用人参」では日本有数の栽培地域。鹿教湯温泉や信州国際音楽村等に年間約54万人が訪れている。

 旧丸子町は,明治中期から大正期にかけて製糸業が盛んで,岡谷地域に次いで日本第2位の出荷額であった。「生糸の町丸子」として海外にもその名を広めた。第二次世界大戦後は,化学繊維などの普及により生糸産業は衰退し,大半は精密機械,紡績,食品などの近代産業に転換した。現在当地域にあう企業の多くはこの製糸業をルーツとする。
 
 菅平高原,浅間山をはじめ蓼科山まで見渡せる眺望のよい丘の上に立つ信州国際音楽村。ここでは,毎年,ラベンダー咲く6月に「信州ルネッサンス」として,地元合唱団や伝統芸能などの披露。そして屋外音楽施設「パノラマステージひびき」では,夜空の星の下,コンサートが開かれている。
 
 鹿教湯温泉は,伝説に包まれた湯の里である。その昔,文殊菩薩が矢傷を負った鹿に化身し,この鹿を追って来た猟師にそのありかを教えた温泉として,「鹿教湯(かけゆ)」と名づけられたとの由来がある。脳卒中を癒す名湯として知られ,江戸時代から湯治場として栄えた。
 現在では,温泉と医療を直結させた温泉療養所として,脳卒中や骨関節疾患のリハビリテーションでは全国屈指の設備,環境を有する。

丸子町は,内村川,依田川沿岸に豊かな田園風景が広がる。山麓の斜面には,薬用ニンジンの栽培畑が見られる。江戸時代から養蚕業が盛んであった。明治初期には製糸生産高は県全体の約半分を占めるまでになっていた。
 明治22年,下村亀三郎氏(初代町長)により第1号の器械製糸工場が誕生し,翌年には生糸共同組合「依田社」が設立され,丸子町は“信州のマンチェスター”といわれるほどの一大製糸地となり,海外にも知られた。しかし,製糸業も昭和4年の世界恐慌を境に衰退の一途をたどり,かわりに絹糸紡績業が台頭した。
太平洋戦争が始まると,製糸工場は軍需工場に転用され,生糸の町といわれた丸子の製糸工場の大半は,姿を消しました
 第二次世界大戦後,化学繊維の発展もあって絹糸紡績は衰退し,昭和30年代からは繊維,機械・金属,食品,電気・電子など工業の多様化が進展し,さまざまな製造業が町内に立地しました。
近年工業団地の造成,浅間テクノポリス構想に基づく先端技術産業の導入など,時代対応を図っています。
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 丸子(まるこ)の地名については,古墳時代,いまの天理市にいた丸子氏の庄であったことから,この地が「丸子」といわれたとの説が有力です。

 和田峠(わだとうげ)に源を発する和田川,大門峠から流れ下りた大門川,美ヶ原(うつくしがはら)より東流する武石(たけし)川,丸子町鹿教湯を水源とする内村川の水をあわせて,上田市大屋で千曲川に合流している川が,依田川です。この水系が流れる細長い平地を「依田窪」と呼んでいます。丸子町は,その中心に位置します。周りを見渡すと,だいたいが山の稜線という感じの町です。域内各地で縄文式土器が出土していることから,その成り立ちは縄文時代にさかのぼります。

 旭将軍義仲が平家追討の兵を挙げたのは,旧依田村(今は丸子町に合併)にある依田城でした,義仲はここで,木曽の郎党や東北信の武士を結集して京都をめざして攻めあがったことから,依田の地は,都へ一番乗りをした信濃武士の起点ということになります。
 
 のち,この地方は「依田庄」という庄園となり,さらにこの「依田」を姓とする有力な武人が,近世初頭まで東信一帯に勢力を張っていました。その意味で,歴史的にはきわめて重要な地点でもあります。
 域内各地で縄文式土器が出土していることから,その成り立ちは縄文時代にさかのぼります。木曽義仲が平家追討の兵を挙げたのは,旧依田村(今は丸子町に合併)にある依田城でした,義仲はここで,木曽の郎党や東北信の武士を結集して京都をめざして攻めあがったことから,依田の地は,都へ一番乗りをした信濃武士の起点ということになります
 のち,この地方は「依田庄」という庄園となり,さらにこの「依田」を姓とする有力な武人が,近世初頭まで東信一帯に勢力を張っていました。その意味で,歴史的にはきわめて重要な地点でもあります。