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エリアマーケティング 

地域性に対応のマーケティングを考える




 栃木県では,かつては栃木市(当時は栃木町)に県庁が置かれていた。廃藩置県後の1873(明治6)年6月,宇都宮県と栃木県が合併して現在の栃木県が誕生したとき,栃木町が県庁所在地になった。宇都宮の住民はこれに反発したが,いったん決まった以上どうすることもできなかった。

 だが,1883(明治16)年頃になると,宇都宮の士族や豪商,地主などが中心になって猛然と県庁移転運動を起こした。県庁が県の南に偏り過ぎているため,県民の多くが不利益を被っているというのが県庁移転連動の理由であった。だが,栃木と宇都宮の距離はわずか30キロメートル足らずしか離れていない事もあって,この誓願は却下された。

 ところが,1883年10月に福島県令(県知事)の三島通庸(みちつね)が,栃木県令に赴任して様相が一変した。県庁移転運動に対抗して提出された県庁移転不可の建議書や,県庁据置請願書などをことごとく却下し,3カ月後の1884 (明治17)年1月に,県庁を宇都宮へ移転したのである。だが,県民の利益を守るために県庁を移転したわけではなかった。栃木が県の南部に偏りすぎているというのはあくまでも建前で,民主勢力を弱体化させることが本当の狙いだったといわれている。

 栃木は栃木県における自由民権運動の拠点として,反政府運動が最も盛んな地域だった。足尾銅山鉱毒事件で知られる田中正造も,そのひとりである。県庁のお膝元から民主勢力を排除し,三島県令の意のままに県政を運営することが,県庁を宇都宮へ移転した最大の理由だったのである。
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